レースが終わり
カラダがバキバキと言うより風邪引いてしまったのか怠さが抜けません。
でも寝るのもだいぶ飽きてきてしまったので、(写真もうちょっと待って・・)
日本から持ってきた本をぱらぱらとめくるめく。
『四つ葉のクローバー』
クローバーの野に坐ると
幸福のシンボルと呼ばれているものを探しにかかる
座興以上ではないにしても
目にとまれば、好ましいシンボルを見捨てることはない
四つ葉は奇形としってはいても
ありふれて手に入りやすいものより
多くの人にゆきわたらぬ稀なものを幸福に見立てる
その比喩を誰も嗤うことはできない
若い頃、心に刻んだ三木清の言葉
<幸福の欲求ほど良心的なものがあるであろうか>
を私はなつかしく思い出す
なつかしく思い出す一方で
ありふれた三つ葉であることに耐え切れぬ我々自身が
何程か奇形ではあるまいかとひそかに思うのは何故か
弘君に座布団一枚
この吉野弘の詩の中で『三木清』の言葉がある
<幸福の欲求ほど良心的なものがあるであろうか>この中からまた拾い集め
良心の義務と幸福の要求とを對立的に考へるのは近代的リゴリズムである。
これに反して私は考へる。
今日の良心とは幸福の要求である、と。社會、階級、人類、等々、あらゆるものの名において人間的な幸福の要求が抹殺されようとしてゐる場合、
幸福の要求ほど良心的なものがあるであらうか。
幸福は徳に反するものでなく、むしろ幸福そのものが徳である。
もちろん、他人の幸福について考へねばならぬといふのは正しい。
しかし我々は我々の愛する者に對して、
自分が幸福であることよりなほ以上の善いことを爲し得るであらうか。
愛するもののために死んだ故に彼等は幸福であつたのでなく、反對に、彼等は幸福であつた故に愛するもののために死ぬる力を有したのである。日常の小さな仕事から、喜んで自分を犧牲にするといふに至るまで、あらゆる事柄において、幸福は力である。徳が力であるといふことは幸福の何よりもよく示すところである。
そう僕は幸福にある
愛するもののために死ねる力を有している。
日常の小さな仕事から、喜んで自分を犧牲にするといふに至るまで、
あらゆる事柄において、幸福は力である。
幸せで或ることを生涯において要求する。
吉野弘が刻んだように僕もこの言葉を刻む。
清君に座布団10枚
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